Vol.16
村に戻れるとき
福島県葛尾村 原発事故の避難指示解除

 6月12日。東京電力福島第一原発事故により全村避難となっていた福島県葛尾村で、帰還困難区域を除く避難指示が解除された。全域で避難した自治体の避難指示が解除されるのは同県楢葉町に続き2例目だ。

 「百姓から百姓仕事とったらなにやればいいの」。避難が解除された日、そう言う花井忠二さんは村内でつくっている水田の稲の様子を見て肥料を与えていた。稲作の実証栽培として今年、9反の水田で米を作っている。郡山市に避難し、他の仕事をやりながら、夕方に葛尾に通っては米の様子を見る生活だという。事故後村民がいなくなった後の水田は一瞬で荒れ果てていき、大きな柳の木が自分の田んぼにたくさん生えていく様は、見るのも辛かったという。避難先の郡山で他人が作る水田をうらやましく見続けていた。実証栽培の話があった時に、近所の人に声をかけると「自分ではできないから、代わりにやってくれないか」という声が多かったため、その人たちの田んぼも一緒にやる決意をしたという。「一時はどうなるかと思ったけど、ほら、誰が見たってこういう風景はいいもんでしょ」と、山あいの青々とした水田風景を眺めた。まだ郡山から通う生活は続くが、これから自宅を壊して建て替えたら戻ってくるつもりだが、同居していた息子家族は郡山市に家を買ったため、以前のように3世代で葛尾に住む希望はなくなってしまった。

 同じ日、 松本方富さん、ウメさん夫妻は村の自宅でのんびり過ごしていた。三春町にある仮設住宅と、この自宅の二重生活をしている。「こっちに泊まると、ああ、やっぱり落ち着くの」。しかし、二重生活をする理由は方富さんが週に2回デイサービスに通い、ウメさんも病院に通っているからだ。葛尾で今その両方ともできず、こちらに暮らしたくてもずっとはいられないのだ。ふたりとも葛尾で生まれ育った。

 吉田学さんは、農地を耕運していた。しかしその農地で作物を作る予定はない。先祖代々の土地をあれないようにしているだけだという。稲作に加え、牛も飼っていた。田んぼは除染作業が行われたが、田んぼの間を区切る畔は除染作業の対象外。畔に生える山菜からは基準値以上の放射性セシウムがいまだに検出されるという。「くやしいよね、農家は自然から食料をもらっていたんだから。そこの森に少し入れば、(放射)線量すごく高いよ」。幹線道路沿いのその森に足を踏み入れ測ってみると1μsV/hほどだった。「絶対に安全だとわからないところに戻るのか?」と吉田さんは話した。

 解除の約2か月前、村で一軒の飲食店「カフェ嵐が丘」が開店した。店主の堀江安則さんは葛尾の出身ではない。震災前年に、移住先を探していた堀江さんは知り合いに案内されたこの村を一発で好きになり移住を決めた。買った土地に家を建て、2011年3月末の退職を待つばかりだった時に原発事故が起きた。すでにカフェとしてオープンの準備をしていた家は避難区域となり、初めて様子を見に行けたのはその年の5月。新築なのに地震で壁にあちこち亀裂が入り、妻のみどりさんが長い年月をかけてひとつひとつ集めた食器が全て割れてしまっていた。実質的にはまだ葛尾に住んでいない時の被災。そのまま移住を諦めれば神奈川には家もあった。それでも葛尾と共に生きていく覚悟を決めた堀江さんは、6月には村民と一緒に仮設住宅に入った。そのおかげで多くの知り合いができた。この5年のうちには諦めの気持ちが出てきたこともあったが、逆にいち早く村に店を開き、そんな諦めの気持ちを持ち始めている村の人たちに来て、話してもらえる場所になればと思ったという。

 7月1日現在で完全に帰還した住民は15人。人口1467人の1パーセントにすぎない。大きな理由としていくつかある。商店が再開しないなど、生活環境が整っていないこと、村に帰って住む意思はあっても、自宅の解体と建て替えが進んでおらず住む家がないこと、そして子どものいる世帯は、5年以上に及ぶ避難生活で、避難先で仕事を始めたり子どもが学校に通ったりして、生活の基盤がすでに避難先でできてしまっていることなどが主な原因だ。帰りたいと思っている人の多くはお年寄りで、田舎ではあたりまえだった3世代の家族も、避難時にバラバラになったり、おじいちゃんとおばあちゃんだけ村に戻る予定で、若い家族は避難先で今後も生活するというパターンが多い。原発事故と、それに伴う5年という避難の歳月は、元どおりに戻れない分断をすでにいくつも産み落としている。

 村内の宅地と農地の除染は、昨年末で完了している。それでも山の方に入ると0.7μsV/h〜1μsV/hほどあり、この放射線量の影響は「わからないとしか言いようがなく、その判断は住民ひとりひとりに任せるしかない」と村の担当者も言う(*注)。今後、商店や診療所の再開を急ぎ、幼稚園や小中学校も来年度の再開を目指している。現状で多くの村民がすぐに帰れない状態であることを理解し、避難先と村内の家の「2地域居住」をしばらくは推奨し、徐々に拠点を葛尾村に戻していってほしいと願っているという。

 

 人口も少なく小さな山の中の村。稲作や畜産が主な産業で、以前は炭焼きやタバコ栽培、競争馬の繁殖も盛んだった。震災前の時点で、福島県で最下位の収入だったほどだが、合併もせず今まで独立してやってきた村だ。大きな特徴はないが、その「自然以外なにもない」ところが唯一でいちばん大きな売りだった。堀江さんのように移住してくる人も多かったという。その自然は原発事故による放射性物質で一瞬で無くなってしまった。「嵐が丘」の裏から見るその景色から、葛尾唯一の財産である自然を感じられる。

 7月には、「双葉郡未来会議」などの主催で、多くの若い人たちが解除後の葛尾の現状を視察し、これからの姿を考えた避難指示が解除されたからといって、それがゴールではない。これから村の行く末が決まっていく始まりにすぎない。

​写真 文/岩波友紀

 

 

 

 

 

 

 

(*注)日本政府は基準として「長期的に目指す年間追加被ばく線量は1msV/y」(単純計算で約0.11μsV/h)としているが、避難指示の解除のひとつの基準として「年間被ばく線量は20msV/y以下」(単純計算で約2.28μSv/h)としている。双方とも国際放射線防護委員会の見解を下地として決定した数値であり、国は、この数値が被ばくにおける安全と危険の境界を表したものではないし安全か危険かはわからない、としている。

松本ウメさんは、葛尾の家に戻るたびにまず仏壇に手を合わせる。先祖に「見守ってて」とお願いするという。