Vol.8
わが子と同じ
福島県伊達市 五十沢のあんぽ柿

 「わが子どもを殺すようなもんですよ」。たわわに実った大きな柿の実をぼたぼたと落としながら、曳地一夫さん(56)は言った。福島県伊達市梁川町の五十沢(いさざわ)地区は「あんぽ柿」という干し柿が名産の地だ。落としている柿は収穫のためでなく、原発事故の影響であんぽ柿に加工できず廃棄するものだ。

 福島第一原発から60キロ以上離れたこの地区にも、事故は大きな打撃を与えた。検査で柿の実にも微量のセシウムが検出された。ほかの果実と違い干して水分が抜けることで製品になるため、重さあたりの放射性セシウム含有量が生の状態の4倍程度になるという。加工は全面自粛となった。打ちひしがれてもなお生産復活を目指した農家たちは、その冬、極寒の中で全ての柿の木の表皮をはがして高圧洗浄機で除染した。その効果もあり、昨年は生産量の目安を定め一部の「加工再開モデル地区」で生産を再開。モデル地区は春の幼果の段階での検査で厳しい基準(10ベクレル/kg)をクリアした畑が8割を超える地区。さらにその中で、収穫前の生柿の検査で7ベクレル/kgを超えたものが出た畑では加工を自粛する。製品になったあんぽ柿は非破壊検査装置で全量を検査するするという徹底した対策とした。今年はモデル地区の数は3倍ほどに増えた。

 

 あんぽ柿はここ五十沢地区の生まれだ。ほかの干し柿との違いは、干す前に硫黄で薫蒸すること。その製法は米・カリフォルニアの干しぶどうからヒントを得て、五十沢で確立された。硫黄薫蒸することで殺菌や防カビの効果があり、黒くならずにきれいなアメ色になる。首都圏や関西でも人気がありブランドが確立されていた。原発事故が起きた年、あんぽ柿誕生からちょうど90年を迎えていた。

 震災前は5トンの製品を作っていた曳地さん。再開した昨年の倍ほどにはなったが今年作れたのは2トンにとどまった。柿に加え、桃やきゅうりを作る専業農家。勉強より農作業を覚えるよう育てられた長男の曳地さんは、小学生のころから学校から帰れば手を真っ黒にして皮むきの作業をするのが冬の日常だった。あんぽ柿を作るのが当たり前だった生活。それは突然なくなってしまった。1年目は除染作業で体を動かして考える時間もなかったが、全面自粛2年目にはやることもなくなり空虚感が押し寄せた。今後どうなるのかという不安でいっぱいにるとともに、ふとこの柿は自分にとって何なんだろうと考えた。冬季、まずしい東北の村では出稼ぎに行くのが当然だったが、それをなくして豊かさを村に与えてくれたのがあんぽ柿だったという。集落を救ってくれた柿。今まで続いてきたことに意味があるのだろうと思った。


 昨年からは東京での福島フェアへの参加や、ツアーの柿むき体験も受け入れてきた。地元の子供たちにも小さいころから親しんでもらいたいと、小学生の授業の一環で体験などを行っている。「90年続いたものを守りたい」。考えた末の思いだった。 「くやしいよねえ・・なんのためにこんな作業しているのか・・」。とった柿を畑に捨てていた岡崎次郎さん(54)夫妻に会ったのは2011年の秋。作業を終えて暗くなりかけた中、軽トラックに手をつきうなだれていた。今冬、市内の特産品売り場に妻の美智子さん(56)の姿があった。仲間とともに声を張り上げてあんぽ柿などの地元農産物をアピールした。飛び切りの笑顔の接客もあってか、あんぽ柿もどんどん売れていた。これまであんぽピザやあんぽしそ巻きなどオリジナルのアレンジも提案して専門家の意見を聞いたり、柿むき体験に来た人に試食してもらうなどの活動もしてきた。3年前に美智子さんはこうも言っていた。「このままじゃ終わんねから」。

 製品の袋詰めの際にほんのちょっとのほこりやごみ、むきのこしをひとつずつ手作業で落としていた。完成までに手間と時間がとてつもなくかかる。そして組合は自ら厳しい基準と検査体制で、安全対策を徹底している。たとえ柿の廃棄の時でも、いつも笑顔を絶やさずに農作業をしていた曳地さん。まるで何事もないように見えるその雰囲気を聞くとこう答えた。「涙流しながらとってるんですよ。でもね、笑いながらやるしかない」。あんぽ柿の復活はまだ始まったばかり。

写真 文/岩波友紀